「セラヤ追放クーデターの黒幕は米国」ホンジュラス元閣僚が証言
2009年6月28日、ホンジュラスのマヌエル・セラヤ大統領が自宅から拉致され、米軍基地経由でコスタリカに追放されました。これをうけてミチェレティ国会議長が暫定政府大統領に就任。セラヤ大統領は内外の支援を得て帰還を試みますが失敗に終わり、09年11月の大統領選でロボ国民党候補が大統領に就任しました。セラヤはドミニカ共和国に亡命、2011年ベネズエラなどの仲介を経てロボ政権と「カルタヘナ合意」を結び帰国しました。ホンジュラスの2009年クーデターの背景を当時の文化相ロドルフォ・パストル・ファスケレが話します。
セラヤ大統領の拉致当日、ホンジュラスでは制憲議会の設置の是非を問う国民投票が予定されていました。拉致の数日前、セラヤ大統領はこの国民投票の実施に反対した軍のバスケス参謀総長 を解任しています。バスケスは、拷問学校として知られる米州軍事学校(SOA)(現在は西半球安全保障協力研究所(Western Hemisphere Institute for Security Cooperation)出身です。ホンジュラス最高裁はこの解任を違憲とし、国民投票も非合法だとしていました。ファスケレはこのバスケスがクーデターを進めた1人だとする記事 を書いています。セラヤ大統領はまた、ベネズエラが進めていた石油価格協定ペトロカリベ(Petrocaribe)と米州ボリバル代替構想(ALBA)に加盟すると発表 しており、米国との同盟関係を転換する政策を2008年に打ち出していました。
大統領拉致には、国際的非難が集まりました。米州機構はクーデターだとして全会一致で非難、ホンジュラスを資格停止処分にしました。ミゲル・デスコト国連総会議長、ALBA首脳会議、南米南部共同市場(メルコスル)もクーデターだとして非難しています。オバマ大統領も当初、クーデターであると述べましたが、のちに国務省は「軍事クーデターではない」とし、 政権内の足並みの乱れを示唆しました。
21世紀に入って中南米カリブ海諸国の大統領が拉致され追放されたのは、2002年のベネズエラのチャベス大統領、2004年のハイチのアリスティド大統領についで三度目です。セラヤ大統領の拉致に関して、米国の関与はあいまいなまま終息しましたが、メキシコについて長年調査報道をしている国際政策センターのローラ・カールセンは、クーデター後に国務省内で進んでいたセラヤ復権への動きが、当時の国務省報道官クレイグ・ケリー、共和党議員ジム・デミント、トーマス・シャノン国務次官補(西半球担当)らによってブロックされた経緯 を報じています。(桜井まり子)
*ロドルフォ・パストル・ファスケル(Rodolfo Pastor Fasquelle) 追放されたセラヤ大統領の内閣で文化相をつとめた。クーデター後ホンジュラスを逃れており、最近帰国したばかり。社会史の研究者で著書多数。ホンジュラスの新聞にもよく寄稿している。
字幕翻訳:田中泉/校正:桜井まり子
全体監修:中野真紀子/サイト作成:丸山紀一朗